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タケノコ三代
大山 桂
祖父 巌は自作と思うが
たけのこは 親にまさりて延びにけり そのたけのこは又延びにけり
の歌を座右に置いていた。
父 柏は戦災と農地開放などあって、親の遺産の大部分を手放すたけのこ生活をした。
三代目の私はタケノコでもタケノコガイ科を研究した。本邦産タケノコガイ科は貝類学の先駆者の平瀬与一郎氏が図譜を出したが、計らずも私の生まれ年大正6年であった。
私が高校生になる頃までは本科はTerebraタケノコガイ属一属しか認められていなかった。
それをTHIELE, 1929,が三属に分けた。
イモガイのように毒が歯舌の中を通って先端近くまで届くHastulaシチクガイ属、歯舌の中が詰まっているDiplomerizaトクサモドキ属、歯舌を欠如するTerebraタケノコガイ属。
その後、彼のタケノコガイの亜属や区の中に歯舌があるものがあることが明らかになった。
BRATCHER&CERNOHORSKY, 1987,は歯舌の有無を無視してTHIELE, 1929,の三属にTerenollaチビタケノコ属を加えた四属を認めた。図が良いので便利だが、ミスプリントが多いのは玉にきずである。
これとは別にTAYLOR, 1990,の研究で解剖上の諸型を認めたが、彼の分類もTHIELEの三属名を用いた。
私は30余年前に邦産類を十数属に分けたが、以上の論文を考慮に入れた新分類を近く公表する予定である。
BRATCHER&CERNOHORSKY,はシチクガイ類がナミノコガイ類と共に潮間帯に住むと記録はしたが、私には信じられなかった。ただ、沖縄の長沢殿衛氏がタケノコガイ類は糸満でごく浅いところで採れるという話は聞いていた。
そこで、半信半疑でタイのプーケットに行った。ホテルの前の海岸で波が引いたときに砂をほじくってみたが何もいなかった。同行の1人がホテルの前の500m位ある海岸の端から端まで歩いた。
そしてホテルの北に当たるほんの幅50mくらいの所に限ってヒメムラクモタケがいることをつきとめた。崩れた波が引くとヒメムラクモタケの殻の背面が露 出することが多く採りやすかったが、長ズボンをはいていたので次の波が来るまでに逃げねばならず、同行の半ズボンの人は私の三倍も採った。
今から三十年くらい前に鎌倉の高橋さん(故人)がシチクガイをたくさん採って桜井欽一氏に提供し、私も少し分けて貰ったことがあった。鎌倉のシチクガイもこんな生態をしていたのだろうか?
最後に和名について述べる。
徳川時代には紅竹・白竹・琉球竹・肉竹・紫竹と漢字で書いた。明治時代からは仮名書きにしたからベニタケ・シラタケ・リュウキュウタケ・ニクタケ・シチ クと書くようになったが、シチクは元来ムラサキタケのつもりだったのかも知れない。v 近年やたらにカイを付ける傾向があり、ベニタケガイ・シラタケガイ・リュウキュウタケガイ・ニクタケガイ・シチクガイと書くべきはずだが、これをベニタ ケノコガイ・シラタケノコガイ・リュウキュウタケノコガイ・ニクタケノコガイなどと書く者が出たが、これは誤りと言うべきである。
タケノコガイ科には新種も十数種あり、纏まるまでにはまだ当分先のことであろう。ご期待を乞う次第である。
注)ショウゴインツキガイは大山先生が1958年に命名。